なんの変哲もない苗字ですが、電子メールに限って一人称代わりに使うことがあります。これにはお笑いじゃなくて謙遜の意が込められています。自らを客体化し、さらに呼び捨てにすることで、謙遜のニュアンスが込められるのだろうと解釈しています。「私」という一人称を何度も繰り返すと押し付けがましい感じがする時があるので、それを回避したいという意識が働くわけ。必ずしも意図した効果を与えているとは限りませんが。
あともう一つ、自らを対象としてはっきりと指示したい時に、苗字で表現することがありますよね。たとえば「鈴木宛に送って下さい」とか。これもおそらく電子メールでのみ見られる不思議な習慣で、たぶん、電子メールが3人以上の間で同時にやりとりできる独特の媒体であるために、ただ「私」と書いたのではここで指している対象が誰なのかとっさには分かりにくいからでしょう。
このように苗字を一人称代わりに使う例を初めて意識したのは「すべてがFになる」であったと思います。たしか、犀川創平が電子メールの中で自分を「犀川」と表している場面があって、とても新鮮で、かつなるほどと思ったのを覚えています。(あいにく手元にないから確認できませんが。こういうことがあるからどんな本でも手放してはいけないんだよね。)