恐ろしいことにツイッターに嵌ってしまっています。ウェブ上の「読み物」の一種としてであって、自分のアカウントはありませんが。毎日かなりの時間をかけて読んでいるのは、渡邊芳之さんをはじめとする、思索系のツイートです。これが中毒性がある。
ただし「読み手」にとっては、媒体がツイッターである必要はあまりなく、ウェブサイトとかで長文読み物としてまとまっているならばそちらの方がはるかに読みやすい。ましてや著作としてまとまるのであればそれを買って読みますが、著作化の期待は持てない話題が中心なので、とりあえずツイッターでの思索を追いかけざるを得ない、ということのように思います。
面白いのは、むしろ書き手にとって、この媒体であることに必然性があると思われることです。この媒体でなければ表には出さなかったのではないかと思われるような個人的話題についての思索を、衆目にさらしている。たとえば信仰告白のようなこと。毎日少しずつ書いては、読み手の反応を受けて、さらに考えて書き足す、というようなことを続けているうちに、そういう状態に入れてしまうのかなあと思ったりする。もともと書きながら考え、その過程を表に出す傾向のある人がそうなっているのだろうけれども、それにしてもツイッターでなければこういう内容の思索は読めなかっただろう。
決してその話題が新鮮だから興味を引くのではなくて、もともと興味がありながら普段は話せない話題であり、さらにその思索態度が真摯だから身を乗り出さざるを得ないわけですが。だって、個人的にクリスチャンに対して「あなたの信仰とは」なんて真面目に質問できる場面は多くないし、ましてや様々な立場からの率直な対話がなされている場面に出会える機会なんて、自分がいる現実の中ではまずないでしょう。これが惹かれずにいられましょうか。
ツイッターは対話の場でもあって、それだからこそ読み物としても面白くなっているわけだけど、「読み手」にとっては「著者」に絡んでくる「対話の相手」というのは、面白いと同時に迷惑にもなりえます。普通ならこの論理でここまで説明されれば納得するだろう、と思うところを超えて、なお納得しない人とか、驚くほどたくさんいる。絡みが長すぎると、もういいかげんに分かってほしい、とうんざりしちゃう。
でも、予想や制御ができない相手が絡んでくるから面白いとも言える。そういう人がたくさんいるんだということを知ることも、ある程度までは面白い。普段は自分が意識せずにいる別世界に住んでいる人が、いきなり目の前に現れ、それを無視することができない構造に自分がおかれること、それがツイッターの「すごさ」であることはよく分かる。
しかしまあ、とにかく「読み手」にとってはツイッターは読みにくい媒体ですね。私ははるかぜちゃんのツイートをさかのぼれるところまで全てさかのぼって読みましたが、えらい時間がかかりました。自分じゃなくて、パソコンがデータを読み込むのに、ものすごい時間がかかるから。データ量としてはほんの少しなので、自分が読むのは一瞬なんだけど。そんなわけで、溜めると読むのが大変になってしまうから、1日とか2日おきに追いかけざるを得ない。また、毎日読むのにちょうど良い量なんですねこれが。日常生活に支障を来たさないようにコントロールしないと、と意識している時点で、もう嵌ってしまっている証拠です。