5月2日に高村光太郎記念館と宮沢賢治記念館へ行った話の続き。光太郎記念館については前の日の記述に。
宮沢賢治記念館のリニューアルは県内では結構大きく宣伝されていたので、大きく変わったのかと思って行ったのだけど、構造的にはあまり大きな変更は無かった。映像機器が一新されていたのと、特別展示室の窓が無くなってきれいになっていたのが目立つ変化。以前と同じで、常設展示室は大きな部屋一つ。中央に映像機器があり、四方の壁に小さいパネルがいくつもある、という構造は変わっていない。

入って歩いてみてすぐに、展示レイアウトの問題を感じる。まずいのは、部屋の四隅の、壁から1.5mくらいのところにそれぞれケースが置いてあること。これのせいで、人が壁に沿ってパネルを読みながら歩いて行くと、角のところで必ず渋滞が起きる。立ち止まっている人を迂回するにはケースが邪魔で、ケースの周りにはそれを覗き込んでいる人々もおり、さらに遠回りをしなければならないからだ。これがすごく複雑な動線を生んで、フラストレーションを与えている。あと、壁パネルの字が意外と大きいので、読みやすい距離まで離れようとするとケースやケースを見ている人にぶつかりそうになる、という問題もある。設計時に気付かないものかなあ。来館者が少ない館なら良いけど、宮沢賢治記念館は県内でも人気のある方なので、混雑時のことを考えたレイアウトが必要だと思うんだけど。

展示コンセプトは、賢治の作品世界を5つのキーワードで表し、それぞれをイメージで伝えるというもので、これも基本的には以前と同じだったような気がする(けれど、前の展示がよく思い出せないので違うかも)。キーワードは「科学」「芸術」「宇宙」「宗教」「農」。それぞれと関連の深い作品の断片や、絵画や写真をパネルにし、モザイク的に壁に設置するとともに、中央の空間を取り囲むように設置された大きな5つのスクリーンに、それぞれイメージ映像を次々に映し出す。「イメージ映像」というのは、断片的な写真が浮かんでは消え浮かんでは消えするのみで、それを解説するテキストがほぼ与えられないからだ。
例えば、「宗教」のコーナーでは、賢治が法華経を深く信仰し国柱会に入って奉仕活動をしたということがパネルを読めば分かる。一方、「宗教」のスクリーンは、何となくインドと中国の仏教遺跡などを映し出している。でもその関連性が、見る人にはほとんど分からない。知りたいのは、国柱会とはどのような組織で、当時どのような社会的背景があって賢治がそこに入るに至ったのかということだし、さらに言えば、その宗教が賢治のどんな作品にどんな風に反映されているのか、ということなんだけど、それは展示から読み取れるようにはなっていない。誰でもこの映像の意味は何なんだろうと不思議に思ってしまうよね。

この展示を見て、やっぱり文学館の展示って難しいんだなあと思った。
その理由は、作品の中身自体がほとんど伝わってこないからだ。賢治の作品をいくつも読んだことのある人が、そのイメージ世界をより豊かなものにできるように、という意図で作られていると考えるべきか。

宮沢賢治記念館は、高村光太郎記念館とは位置づけが異なる。光太郎記念館は作家が7年間滞在しただけの異郷にあるので、その部分を中心にすれば良い。が、賢治記念館は作家の故郷であり生涯の本拠地であった花巻にある。言わばここが本山だ。そのわりに、賢治の主要作品そのものに触れる展示が少ないのはどうも不思議だ。
それはそうなんだけど、では作品そのものに触れる展示とは一体どういうものかと考えると、そんなものは無理なのかもしれないと思う。
(まだ続きます)