現時点での総括。
「都会」である神奈川県においては、既存の博物館スタッフと市民ボランティアで植物誌を作り、さらに改訂を実現した。神奈川方式では、行政の存在感は非常に薄く、通常の博物館活動の延長上に植物誌がある、という感じがする。
一方、「田舎」である高知においては、初めから植物誌作成を県の事業として立案し、しっかりと予算をつけ、専任スタッフを雇用し、その上で市民ボランティアを集めて植物誌を作った。高知方式の場合、主体は行政にある。
そのことは市民ボランティアの参加動機にも表れている。「都会」の人にとってはおそらく信じがたいことだろうが、「田舎」の人たちにとっては「これは県のための仕事である」と認識できることが、重要な参加動機になりうる。特に高齢男性には「県から依頼された仕事ならば手弁当でもやってやる(が、そうでないならばそこまでする理由はない)」と言う人が何人もいる。こういう「行政に奉仕することは郷土に奉仕することであり、名誉である。」という精神は、都会の人にはほとんど無いものだ。私自身も「都会」出身のよそ者なので、この意見が非常に理解しにくく、共感しにくい。
岩手県の人たちにとって親和性が高いのはもちろん「田舎」方式なので、昨日の高知県の事例は、神奈川県の事例に比べて、聴く人たちにとって大変耳に快く、楽しい内容だったはずだ。
しかし、1999年当時の高知県で採られた方法は、現在の高知県では、もう無理だそうだ。ましてや岩手では全く実現不可能。現状では望むべくもないということが、皆に理解できるだろうか。
不況下にあっても行政の財政状況に左右されず、持続的にやっていけるのは、やはり神奈川方式なのだろうと思う。どうしても行政をあてにしがちな地方において、市民活動の動機をどのように生み出すか。抽象化すればそうなる。